対岸の火事
先日のブッシュ入洛(じゅらく)は、結果的に大惨事を招くようなことにはならず、ホッと一安心。
とはいえ、そこで日常生活をしているわれわれにとっては、市内の特定地域で大規模な交通規制(こともあろうに朝夕のラッシュ時!)が行われたことによる被害は蒙った。確実にブッシュは京都市民の反感を買ったことであろう。つられて「盟友」小泉首相の京都市内支持率も低下(たぶん)。
前回の記事で私は、ブッシュ入洛をどこまでも対岸の火事としてしか捉えられない周囲の人々に対して、苛立ちを覚えたと書いた。
私のお気に入りサイト「内田樹の研究室」の御主人である内田樹氏が、いわゆる昨今の改憲問題に絡めて以下のような記述をされている。改憲論者の多くは…
「戦争は『ここではないどこか』で起こるものであり、戦争で破壊されるのは『日本ではないどこかの都市』であり、戦争で殺されるのは『自分ではない兵士たち』である。」
と考えているのだろう、と。
先日私が周囲の人たちに感じた違和感はまさに、このような感覚に対してであった。
そして私が驚いたのは、このようなモノの捉え方をする彼らは、いわゆる「護憲派」と自称する人たちであるということにであった。
内田氏の分析が正しいとすれば、改憲派、護憲派にかかわらず「日本人」にとってはどこまでも戦争は対岸での出来事であり、自分たちには安全が保障されているのだ、ということを前提していることになる。さしたる根拠もなしに。
確かに私の周囲にいる自称護憲派の方々はよく、「世界の人々は戦争やテロの恐怖に怯えながら生活をしているという現実があります」といった類の言葉遣いをする。
ここでいう「世界」とはわれわれが住んで「いない」、「外」の世界を指し、「世界の人々」のなかに当然自分自身は含まれていない。
だからこそ、ブッシュが目の前にやってくるという事実が明らかになっても、普段どおりの生活をおくれるのだと、何の疑問もなく思う(正確にはそう思うことさえ自覚していないのだろうが)ことができるのだろう。
「世界」「アジア」と語るとき、そこに「日本」の存在が無自覚的に欠落するのはいったいなぜなのだろうか。
ちょっと真剣に考えてみようと思った。
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